群馬県に残された風説留(古文書)

古文書から読み解いた『 幕末のコレラ 』と群馬県に残された風説留を読んでみませんか

 群馬県に残された風説留(古文書から)
                              
                              服部 瑛

はじめに
 過去の時代の古い文書を古文書と言い、御存じのようにその多くはくずし文字で書かれています。あのクネクネとしたくずし文字を読めたらいいなと思って勉強を始めたのが10年以上前のことでした。そんな中、『赤堀家文書』に出会ったのです。『赤堀家文書』は群馬県佐位郡今井村(現群馬県伊勢崎市赤堀町今井)の赤堀家に残されていた20,000点を超えるという膨大な文書群で、群馬県立文書館に寄託され、現在同所に収蔵されているものです。
  この膨大な文書群の中で特筆されるのは、江戸時代の風説留(幕末維新期の情報記録集)が系統的に残されていることです。その風説留の著者は、赤堀伴七(ばんしち 浩平)という庄屋さんだった方です。伴七翁は、享和元年(1801)生まれ、明治22年(1889)没なので、88歳まで長命を保った人物です。多難な幕末期を生き抜いた伴七翁は、天保3年から明治18年(1885)までの半世紀に及ぶ大量の当時の記録を精力的に残してくれました。それらは、『天保弘化年間記聞』(2冊)から始まって、『外夷来艦誌』(11冊)、『安政記聞(5冊)、『文久記聞』(3冊)、『元治記聞』(9冊)、『慶応記聞』(13冊)、『明治記聞』(1冊)、『紀聞』(9冊)などです。残念なことにその一部は欠落しているのですが、読んでみると当時の息遣いが仄かに漂ってくるのです。この赤堀家の風説留を読みながら、それまで客観的だった幕末の歴史が、いかにも今起きているような錯覚を覚えて楽しくなってきました。そこで、この楽しい世界を独り占めにしないで、多くの人にも知ってもらいたいと思って、このブログを始めることを思い立ちました。嬉しいことにブログに手慣れている写真家の杵淵辰巳さんが手を差し伸くれました。
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               図 『文久記聞 九』の記事
           編者赤堀伴七翁は壮大な幕末史を語ってくれている。

  とりあえず風説留『天保弘化記聞』からとその風説留から派生した『幕末のコレラ』を同時に紹介していくことから話題を始めたいと思っています。この古文書の翻刻に関しては、大庭邦彦先生(聖徳大学教授)、村野守市さん(古文書講座「古文書に見る幕末社会」会員 毎日文化センター)にチェックしていただきました。もちろん、お二人とも古文書解読の達人です。
よろしくお願い致します(ブログ開始日 2023年3月21日)。

 このブログの眼目は、「幕末のコレラ」と「赤堀家の風説留」を後世に残すことだと思っています。歴史上では意外にも影が薄い幕末のコレラを古文書から調べて一文にしてみました。そのコレラから、赤堀家の風説留が現れて、読み込むほどにこの記録集は貴重だと知るに至りました。その他のカテゴリーはおまけです。よろしく。(7/10'24)
 
 この機会にお世話になっている写真家杵淵さんの作品を紹介しておきましょう。
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  写真は記録である・・・
  
  今日
(こんにち)、群馬県内の桑のある風景は、殆どその姿を消してしまった。
  それは生糸需要の衰退した今となっては、仕方がないことだろう。
  そんなことで子供の頃から慣れ親しんできた桑の風景を、この時期を逃したら
  二度と撮ることができなくなる、という危機感に迫られ平成16年(2004)
  冬から春にかけて、ある丘陵地帯で撮影を続けた。     
                          2020年6月 杵淵辰巳


 
古文書とて同じことで、火事などで紛失すればその情報が全く無に帰してしまうのです。たとえ紛失しなくとも、文書館に埋もれてしまっていても同じことなのです。
 そんな中、田舎である群馬の地にも、赤堀伴七や医師上原元伯という傑出した人物が存在していたという事実は私にとって感動的な出会いでした。これはぜひなんらかの形で顕彰しなければなりません。そんなキッカケなのですが、驚くことに古文書を通して、すでに無くなったと思われた幕末の情報が躍動しながら浮き出て来たのです。このブログを通して、激動の幕末をあなたも体験してみませんか。

古文書の掲載に関して、赤堀家と群馬県立文書館の御厚意に感謝します。
 なお、杵淵氏は、最近群馬県の巨樹すべてを歩き訪ねてブログに投稿を始めました。群馬県全域に渡って一本一本丹念に調べた精魂のこもった作品で、巨木に関心のある方には一見の価値があります。

 群馬県立文書館
 文書館とは史料(主に江戸時代からの群馬県の古文書など)が保存され閲覧利用できる施設です。群馬県は全国的にも規模が大きい施設だと聞きました。JR前橋駅の南口から徒歩25分(約2km)くらいのところにあります。駐車スペースは広くとってあります。玄関を入って右手に受付がありますから声をかけて下さい。閲覧室は2階にあります。所定の用紙に記入しますと史料を捜してくれます。その史料をコピー(立派なコピー器があります)あるいは写真撮影することができますが、やはり所定の用紙に記入しなければなりません。煩雑な作業かもしれませんが、大切な史料を扱うので仕方ありません。今まで沢山利用してきましたが、皆さん礼儀正しくやさしく対応してくれました。お気軽に利用して下さい。

なお館内には展示室があり(玄関から入って1階左側)定期的に史料の展示を行っています。
次回の展示は下記です。

テーマ展示  「史料が伝える戦時下のぐんまー戦争が変えた日常ー」(6月29日まで)
       
もちろん無料です。

 住所 371-0801 群馬県前橋市文京町3-27-26
 TEL 027-221-2346  FAX 027-221-1628
 E-mail  monjyo@pref.gunma.lg.jp
 開館時間 午前9時~午後5時
 休館日 月曜日、国民の祝日、月末整理日、特別整理期間
 

                   本ブログの歴史

令和6年 (2024)
1/5 『外夷来艦誌 10』『外夷来艦誌 11』翻刻文チェックを大庭邦彦先生より入手
1/17 『元治記聞 18(前編)(後編)』
1/30   『元治記聞 21』『元治記聞 23』
2/8    『外夷来艦誌 12』翻刻文校正大庭先生より拝受。
2/13   『元治記聞 22』『慶応記聞 32』
2/19   『慶応記聞 24 (前編)(後編)』
2/26   『元治記聞 19(前編)(後編)』
3/4     『慶応記聞 34』
3/14   『慶応記聞 26』
3/18   『慶応記聞 28』『慶応記聞 35』
3/24   『慶応記聞 30』
   「異本病草紙」に小林古径の絵図追加
3/29   『慶応記聞 31』
   『文久記聞 9』翻刻文チェックを大庭邦彦先生より入手
4/7     「赤堀家の風説留への思い」を「赤堀家文書」に追記
4/13   『慶応記聞 27』
4/14    「静岡・山梨・長野の満開の桜」を「足跡」に掲載
4/16   「小林古径と異本病草紙」を「異本病草紙」に追記
4/22  『慶応記聞 29』を入れ、『文久記聞 9』画像追加
4/23  『慶応記聞 33』
4/28  『外夷来艦誌 1』再読
4/30  『外夷来艦誌 2』再読
5/03  『外夷来艦誌 3』再読
5/07  『外夷来艦誌 5』再読
5/09  『外夷来艦誌 6』再読
5/11  「足跡」に「第21回風友会写真展」を追加
5/12   カテゴリーの整理と変更
   「医師会など」に「佐藤仁先生と舘出張」足跡」を追加
5/15  『外夷来艦誌 7』再読
5/22  『外夷来艦誌 8』再読
5/23  「幕末のコレラ補足」に「疫神への畏怖」を追加
5/25  『外夷来艦誌 9』再読
5/28  「幕末のコレラ補足」の「書物からみた幕末のコレラ」に「高田郁」「永井荷風」
5/29  「幕末のコレラ補足」の「書物からみた幕末のコレラ」に「日本災変通志」追加
    「異本病草紙」に「重源の一輪車」を追加           
    「幕末のコレラ補足」の「書物からみた幕末のコレラ」に「吉村 昭」追加
5/31  「医師会など」に「佐藤仁先生と萩原朔太郎」を追加
  「温故知新」
6/01   『文久記聞 9』翻刻文チェックを大庭邦彦先生より入手
6/06    「書物からみた幕末のコレラ」に「氏家幹人」「井沢元彦」「須川努」追加
    『外夷来艦誌 10』再読
6/15  『外夷来艦誌 11』再読
6/12  『外夷来艦誌 12』再読
6/29  『安政記聞 1』再読
7/03  『安政記聞 2』再読
7/08  『安政記聞 3』再読
7/10   『文久記聞 13』翻刻文チェックを大庭邦彦先生より入手
          「足跡」に「寂しいよ」追加
7/12  『安政記聞 4(前編)』再読



令和5年(2023)

3/21 本ブログを開設しました(『幕末のコレラ』『外夷来艦誌1・2・3『沓掛良彦先生』など)。
4/26 この風説留は群馬県立文書館に寄託されたものですので、赤堀家の許可がなければ掲載できなません。
   今後追加・修正した文章は青色にします(私の記憶保持のため)。
5/2      赤堀家より原文掲載の許可がおりました。従って、風説留のすべてを掲載する予定です。
5/8   新たに、平安時代の医療を取り扱った絵巻物『異本病草紙』を掲載しました。
5/9 『外夷来艦誌 5』の翻刻を終えました(『外夷来艦誌 4』欠)。
5/15 『良寛を求めて』を掲載。
5/22 『元治記聞 20』の翻刻文を追加。
6/5     「孝明天皇の死 」および『外夷来艦誌 7』の翻刻文を掲載しました。
6/15  群馬県立文書館概要
6/22 『安政記聞1』及び「続日本紀と疫」を追加しました。
7/04 「いじめ」  (開院日35周年)
7/17   「龍馬とおりょう」
7/19 『外夷来艦誌2 ・3 ・5』翻刻文のチェック(大庭先生)
7/24 『外夷来艦誌 8』
7/31 『外夷来艦誌 9』
8/7   「吉田松陰と疥癬」(再編)、「松島榮治先生」
8/20 『外夷来艦誌 10』
8/21   『孝明天皇の死』の末尾に「痘瘡ウイルス死す」を追加。

8/22    『吉田松陰と疥癬』の末尾のに「勢古宗昭先生を偲ぶ」を追記
8/23  「ブルーノ・タウトと田中病院」

8/24 
「松島榮治先生」の中の「医療の原点を探る」末尾に「かなた新聞〈所長挨拶〉」を追加
9/4  『安政記聞2』
   「天狗党と高崎藩」追加
9/11 『安政記聞3』
          「天正遣欧少年使節団」
9/19 「皇女和宮と中山道」
9/20 
『外夷来艦誌 7』翻刻文のチェック(大庭先生)
9/23 『安政記聞 4 (前編)および(後編)』
10/2 「高野長英と高橋景作」
10/8 
『外夷来艦誌 8』翻刻文のチェック(大庭先生)
10/9 『安政記聞 5(前編)』
10/10 「幕末のコレラ 補足1・2・3」
10/19 『安政記聞 5(後編)』
10/20 「長門谷洋治先生」
10/22 『天保弘化記聞 上(前編)』
10/26 『天保弘化記聞 下(後編)』
11/3  『天保弘化記聞 下』
11/4  「幕末京都のコレラ」を「幕末のコレラ 補足2」で追加
11/13 カテゴリーを改変しました
    随筆の項目を追加しました。
11/20 「幕末のコレラ」に書評を追加しました。
11/22 
『外夷来艦誌 6』翻刻文のチェック(大庭先生)
11/27 『文久記聞 12』前編と後編                               』
12/18 『文久記聞 9(前編)』『文久記聞 9(後編)』
    『文久記聞 13』
12/25 『異本病草紙』に関して、補足として唐澤至郎氏の論文を追記した。
12/28  沓掛良彦『百人一死』(水声社)の中の「西行」と「良寛」を紹介。
    足跡に『3日間で東北5県をまわる旅』を追加。
           「20世紀の群馬の巨樹・古木」をリンクしました。
            『元治記聞16(前編)』『元治記聞16(後編)』を追加。
    『元治記聞17』を追加。
2024.1/5  
『外夷来艦誌 10』『外夷来艦誌11』翻刻文チェック(大庭先生)

 本稿を書くにあたって下記のことに留意しました。
1)翻刻文は 実際に古文書を読んでいただきたいという理由から、史料の引用にあたっては、旧漢字 及 び異体字は原則として新字体にしました(例 國→国)。またカタカナはひらがなに変換し、さらに「ニ而」→にて、「ゟ」→より、「之」→の、「江」→へ、「茂」→も、「与」→と、「而」→て、「者」→は ば、而已→のみ、と改めました。古文書を理解しやすいように、区切れると思われるところには句読点を打ち、難字に関しては例えば、「厥冷(けつれい)」といったように適宜、振り仮名をあるいは意味を補いました。さらに、「本草綱目沙虫集解」と区切りがはっきりしないところは1マス開けて、「本草綱目 沙虫集解」としました。さらに、「へき」→べき、然者→「しからば」、候得者→「候得ば」とあえて濁点を付けたところもあります。
2) 古文書の写真は、写真家 杵淵辰巳さんが撮影して下さり、見やすくなるようにフォトショップで修正したものです。
3) 古文書の翻刻は、正確を期すことはもちろんなのですが、素人の私には荷が重い作業になっています。当然のことながら、すべてが正しいとは思っていませんのでその点はご了承ください。それを補うために古文書の原文すべてを写真撮影して添付しておきましたので、おかしい部分は原文を参照してください。私の目的は赤堀家の風説留を紹介することなのです。くれぐれもよろしくご配慮ください。
(不明な部分はだいだい色でマークしました。)
 順次修正しながら翻刻の作業を進めて行きます。なお、翻刻文には当然のことながら間違いが見つけられますが、少なくとも3回は読み直して、その間違いをチェックします。さらに、古文書解読の大家 大庭邦彦先生のご添削も併せてお願いしています。よろしくお願いいたします。

略歴
 
服部 瑛(はっとりあきら)

 昭和22年5月29日生まれ
 昭和41年 新潟県立新津高等学校卒業
 昭和49年 群馬大学医学部卒業
 昭和53年 群馬大学医学部大学院卒業(医学博士取得)
 同年   群馬大学皮膚科講師
 昭和55年 前橋赤十字病院皮膚科部長
 昭和63年 医療法人はっとり皮膚科医院理事長
 平成16年 日本臨床皮膚科医会常任理事
 平成17年 日本臨床皮膚科医会学会会頭
 平成27年 奈良大学通信教育学部文学部入学、4年後卒業論文(続日本紀と疫)を  
      書き上げて自主退学
 令和5年  日本臨床皮膚科医会特別会員



幕末のコレラ
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 ライトアップされた知恩院(京都東山)の御影堂である。これからお話する幕末の
 コレラでは
数知れないほどに多くの犠牲者が出た。コレラに罹った人たちは
 苦しさの中で煩悶・苦闘したことであろう。そのことを古文書は赤裸々に語ってくれている。
 本文に
入る前に、宗派の枠を超えて、まず亡くなられた方に弔いの意を込めて祈ってほしい。

はじめに
  このところコロナウイルスのパンデミック(全世界的)な流行が世の中を騒然とさせている。なんと理不尽な、と思っている方もいらっしゃるかもしれない。しかし疫病は太古の昔から連綿と私たちを苦しめてきた。だから私たちは、疫病から生き残れたそれこそ幸運な先祖の子孫であることをまず感謝していただきたい。疫病とは、伝染病のことで、麻疹(はしか)や痘瘡(天然痘)などがよく知られているが、最近ではインフルエンザが定期的に私たちを苦しめている。
  この理不尽な伝染病の原因がわずかながらわかり始めたのが明治10年代の細菌の発見だったから、それまで果てしもなく長い間、人類は暗黒の世界といった状態でこの厄介な病気と立ち向かわねばならなかったのである。歴史上、疫病のパンデミックな流行は、幕末安政5・6年の暴瀉病(コレラ)が特筆される。当時コレラで多大な犠牲があったのだが、その暗澹(あんたん)たる状況下でも、当時の人たちは古文書の中にその記録をしっかりと残しておいてくれたのである。その事実は、誰かが読まないと現代に戻せない。そこには、驚きや警戒、恐れや不安、苦痛や絶望、嘆きや悲しみ、あるいは一命を取りとめて喜びや安堵などあらゆる感情が迫ってくる。
  群馬県には、松島榮治(えいじ)先生という歴史学の大家がおられた(令和4年師走92歳でご逝去)。ある時、松島先生に不躾(ぶしつけ)に「古文書を教えてくれる人はいませんか」とお願いしたことがあった。しばらくして、「なかなか適当な先生はいません。直に古文書を読んでみたらいかがですか」と「上原家所蔵文書目録」を持ってきてくださったのである。刮目(かつもく)するとはこんなことをいうのだろうか。その中から暴瀉病という病名が目の中に一直線に飛び込んできたのである。私の古文書との最初の出会いだった。
  そして今回、コロナウイルスのパンデミックな流行に出会った! 
まさか生きているうちにパンデミックな流行に出会おうとは夢にも思わなかった。それは、今まではるか遠くにあってそれこそ客観的だったものが、すぐ間近に主観的になったような強烈な印象だった。さて一体何をなすべきだろうか、と自問した。
 思い立ったのは、古文書を通して当時の状況を正しく知っていただきたいという思いだった。そのきっかけを与えてくれたのが、最初に出会った上原元伯の『暴瀉病に付』という古文書だった。不思議なことだがその後、古文書『安政記聞』の中にもコレラの記事を見つけ、「倉賀野神社」、「赤城神社」、玉村宿の『三右衛門日記』、各県の『県史』の中にも見つけることができた。疫病は、遠い昔の歴史書『続日本紀』(奈良時代) にもあった。拙いながらその出会いに目を向け、それぞれ一つずつ物語として紹介する作業を行った。このことから読者は、幕末のコレラの流行にどう対処したか具体的に知ることができるであろう。可能なところは現代語訳をつけたけれども、それだけでは原文の持つ雰囲気や緊張感といったものが失われてしまうので、できるだけ当時の文章をそのままに読んでいただきたい。残念ながらその状況や気配は決して楽しいものではないが、コロナウイルス(COVID- 19)が跋扈(ばっこ)している今ならば当時の状況を正しく理解していただけるのではないかと考えている。場合によっては、当時の息遣いまで漂ってくるかもしれない。あるいはコロナ禍に対処する際の参考になるかもしれない。私の拙い古文書の旅にお付き合い願いたい。

 と、この試みを一昨年『古文書から見た幕末のコレラーコロナ禍に遭遇して』(みやま文庫 群馬県)と題して上梓したが、そこでは文久2年のコレラのコレラ騒動を取り扱わなかったなど、いささか不十分な点もあったことを認めなければならない。さらに拙著はもっぱら群馬県内の読者を対象としたため、より多くの読者の批判を仰ぎたいため、今回前著の増補拡大版として、ブログという場をお借りして世に問うてみたいと思ったことをご了承いただきたい。
  これから述べる文章は、基本的には拙著『古文書から見た幕末のコレラーコロナ禍に遭遇してー』を掲載したものである。しかしその後、多くの追加や修正を加えることになった。ブログの素晴らしいところはいつでも修正可能なことである。そこで、追加・修正したところは、黒字でなく青字で示して区別できるように配慮した。

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  図 『古文書から見た幕末のコレラ』(みやま文庫 群馬県)表紙と裏表紙
     2021年10月27日発行


第1章 上原元伯『暴瀉病に付』

  暴瀉病との出会い
 ほんの些細なことが積み重なって、いつしか激流になってしまったと言ったら信じて頂けるだろうか。それほどにまで暴瀉病の古文書が私に与えた衝撃は大きかったと言わねばならない。そのきっかけは、冒頭に述べたように松島先生が持って来て下さった「上原家所蔵文書目録」の中で見つけた「暴瀉病」という病気だった。
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  図 上原家文書目録
 赤印に示される「暴瀉病に付」が私の目に飛び込み、釘付けとなった

 暴瀉病とは一体どんな病気であろうか? 
それを探ろうと、初めて群馬県立文書館に飛び込んだ。そのほんの些細な一枚の目録が私を突き動かしてくれたのである。文書館には確かに上原元伯の『暴瀉病に付』という小冊子があった。これから述べることは、その小冊子から始まり、その後大きく展開していった。
 暴瀉病とはコレラのことだった。激しく吐瀉(としゃ)するという意味なのであろう。なるほどと思った。むしろ適切な病名とも云える。本文に入る前にまず、簡単にコレラのことを述べておいた方が親切であろう。
 コレラとは、コレラ菌という細菌によって引き起こされる急性伝染病である。主症状は、下痢・下痢とそれに伴う脱水症状である。コレラ菌が、食物や水とともにヒトに経口摂取されて、大便とともに排泄される。これが再び食物や水を媒介して別のヒトに入り伝染し、さらに排泄されて同様の経路で際限もなく感染をひろげていく経口感染症である。伝染することが大きな特徴なのだが、本稿では、ウイルスや細菌が分かった時代のものは、感染(うつ)るとして理解し、それ以前の原因の分からなかった時代のものは流行(はや)るとしておきたい。幕末当時のコレラは、感染(うつ)る病気ではなく、原因が全く分からないが流行(はや)る病気だったのである。
 コレラの発生流行は、紀元前400年頃からインドのガンジス河あたりに現局して流行した地方病でしかなかった。18世紀に入ってヨーロッパがインドに進出したあと世界中に広がったとされる。コレラが世界流行した最初の年は1817年だった(水野忠邦老中になる)。それから6回も世界的大流行(パンデミック)を起こしている。これからお話しする流行は、その第3回目のものである。第3回目の世界的大流行は、1852年から53年にかけて始まり、東南アジア、中国でも激しい流行をみせて、1858年長崎に上陸した(酒井シズ『病が語る日本史』)。
 なお今回述べるコレラは、古典型(アジア型)と呼ばれるものであり、劇症で致死率も高い。その後、症状の軽い新型のエルトール型に置き換わったと指摘されている。
 
『風説留』に見るペリー来航
 唐突だが、ここで風説留(ふうせつどめ)という古文書を紹介しておきたい。コレラだけの話題では、当時の諸相、殊に幕末の動乱の様相は見えてこない。こうした風説留の話題を挿し挟むことで、当時の雰囲気が背景となって、コレラが立体的に浮かび上がってくると思われるからである。
 風説留とは、当時の情報をまとめたものである(殊に幕末維新期の情報記録集)。幕末の人々は情報を求め、あらゆる手段を用いて収集し、記録し、写して冊子に綴っていき、さらにそれを回覧していった(宮地正人『幕末維新変革史』)。それが私の手元にあった。「赤堀家文書」の中の『記聞』と『外夷来艦誌』と呼ばれるもので、後者にはペリー来航時のことが詳しく収められていた。
「日本に開港を求めるアメリカ大統領の国書を携えて嘉永6年(1853)6月3日に来航したペリーは、翌4日には江戸湾内海に無断で入り込んで測量を始め、6日にはミシシッピー号が護衛する測量船が小柴沖(現横浜市金沢区)まで接近した」(佐々木克『幕末史』)とあるが、そのミシシッピー号が5年後、なんとまたコレラを運んできたのである。ミシシッピー号は2度も日本に激震を生じさせた恐るべき船だったのだ。
 ここで『外夷来艦誌』の冒頭の部分を紹介するが、読者にとってなれない古文書の解読は困難を伴うことが想定される。そこで、「はじめに」で述べたように、古文書の内容が分かる程度の要約を先行させて古文書を読まなくとも理解できるように配慮した。実は、古文書の現代語訳は意外にも難しい。その後古文書を読むことで当時の息遣いが確かに漂ってくるはずである。

風説留『外夷来艦誌』の冒頭
要約 嘉永6年6月3日、アメリカ合衆国の軍艦4艘が相模 浦賀へ姿を現わした。翌4日、それを江戸へ報告。9日、ペリーは久里浜に上陸し、浦賀奉行井戸石見守(氏栄 1799〜1855)と戸田伊豆守(弘道 ?〜一853)が応接、アメリカ大統領の書簡を受け取ったところ、来年3月の返答を要求して退帆した。噂では、井戸と戸田は剣付銃を持った兵に脇を押さえられ、井戸は恐がったという。ペリーは、上品に見え、その風貌は三国志の関羽のようだったという。井戸は真っ赤な陣羽織を着ていたく下輩に思われた。なぜならアメリカでは下賤な人が赤い服を着るからだった。

『外夷来艦誌』冒頭部分 
 六月三日 亜墨利加合衆国の軍艦四艘相州               アメリカ
  浦賀へ渡来、翌四日江戸へ御注進有之            ※ 事変を上に報告
 同九日正使彼理栗浜へ上陸被 仰付、浦賀御奉行        ※ ペリー   
  井戸石見守 戸田伊豆守御応接、亜墨
  利加国王の書翰御請取、追て
  蘭人を以御返答可有之の由の処、猶亦来三月渡来
  御返答可承由にて即日退帆す

  巷説に応接の砌亜墨利加の人剣付鳳砲(銃)を所持
  井戸石見守殿 戸田伊豆殿の後へ回り脇を配
  扼居候に付、井戸石州恐怖の色有之候よし、正使
  彼理は随分人品宜、画に書し関羽の様也と井
  戸石州仰られ候との事也、井戸石州は御目付にて
  井戸鉄太郎と申されし御人也、今度御撰みにて
  浦賀御奉行被為蒙 仰候也、才器ある御人と申
  事なり

  応接の砌、井戸石州猩々緋の陣羽織御着用の所、異国   ※黒みを帯びた鮮やかな深紅色
  人下輩と心得、戸田豆州へばかり厚答礼いたし候処
  通訳を以漸相分答礼に及候よし、彼国にては
  雑人共羅紗猩々緋を相用い候よし
 
 剣付銃を持って脇を押さえられた井戸石見守の緊張する気配が伝わってくる。何よりも井戸石見守が赤い服装のため相手にされなかった様子が微笑ましい。目立った赤い陣羽織姿が浮いて現れてきた。こんな時に赤い服装とは実に意外だった(当時は普通だった)。ペリーは品格よろしく、風貌は関羽のようだったと記されている。井戸、戸田はともに旗本でこの大任を任された。
 このように風説留には、歴史教科書には出てこない興味深い裏話が豊富に散りばめられている。コレラの記事と合わせて読んでいただけたら当時の雰囲気が漂ってくるのではなかろうか。

上原元伯『暴瀉病流行に付』
 前置きはこれくらいにして、これから『暴瀉病流行に付』を読んでいただく。これが私の初めて接する古文書だった。丁寧な楷書・カタカナ文で書かれて読み易かったことが殊の外幸運だった。古色蒼然とした文字からは、本当に古文書を読んでいるのだという幾ばくかの感動を覚えたことを今でも思い出すことができる。
 この書は、上州前橋の上原元伯(げんぱく ?〜1862)という医師が幕末、コレラに接して渾身の思いを込めて綴ったものである。この元伯の書こそが本書の巻頭を飾るにふさわしいと思えた。決して有名な医師ではない。しかし、コレラに真正面から立ち向かった壮絶な記録だとも言え、そのことがこの書を貴重な記録書としての立場を鮮明にしているのである。
 たどたどしいながら読み終えて、コレラをなんとかしたい元伯の熱意が伝わってきて感銘を受けた。と同時に元伯に対峙して教授されている気分にもさせられたことを今でも鮮明に覚えている。私にとって決定的な一冊だった。この小冊子を手にしたことが運命的な出会いだったと言ったら大袈裟かもしれないが、この出会いからコレラに関する古文書を渉猟(しょうりょう)したし、なによりも幕末史に興味を持って幕末の風説留を読み進めることになったのである。
 『暴瀉病流行に付』とは、上原元伯という医師がコレラに接してその病状を調べ、病因にまで言及した医学論文とも言える書である。文章は相当に難解である。そのため文章を七つに分けて、それぞれに仮題をつけて、解説を試みることにしたい。(この章を読み終えると、次章からは平易な内容になるのでしばらく我慢して読んでいただきたい。)

※ 上原家は、江戸期に在って上州前橋(当時高崎藩領〈大河内家松平家支配〉現前橋市元総社町) の蒼海城(そうみ 現総社神社内)を拠点とする長尾氏の臣下木部氏より分家した家柄で、明治期に至るまで代々医師として業を継ぐ家柄であった。2代目当主に当たる元伯は、若くして江戸に上って、学問に励み、特に伯明先生(詳細不明)に医学・医術を学んだとされる。故郷に帰り、医業を生業とする傍ら私塾を開き子弟の育成に尽くした。墓誌銘によれば元伯は、「文久2年3月16日没」とあった。安政のコレラ流行の3年後のことである。おそらく元伯は、コレラの流行に遭遇して、医師としてさらに教育者としてその惨状を黙視することができなかったのであろう。その状況を記録に留め後世に託したものと考えている。

a.コレラの病状
要約 安政6(1859)年中秋8月12日頃より、暴瀉病が我が村に流行し死亡する者は数知れなかった。昨年の夏にも少し流行したが、今年の数は比較にならないほど多かった。それは、北から始まり南方へと移り、遂には城下一帯に広がった。その勢いは、台風が砂を巻き上げ樹木を倒すように激しく進み、多くの死者を出したが、その速いことは、2〜4時間、あるいは半時(1時間)で斃れる者が続出した。その症状は、腹痛せず苦しむこともなく、暴瀉することから始まる。水様で粘り気があり、あるいは米のとぎ汁のようなものを混じる。2・3回、あるいは4・5回で声が出なくなると悪い兆候である。次いで下腹が張り、吐くこと2・3回にして、顔色が変わり大いに悶(もだ)えうなり苦しむ。手足は冷汗が出、ひどく喉が渇き水を欲し脈拍が衰えてくる。筋肉が突然痙攣(けいれん)する場合もあり、そうでなく痙攣せずに困睡状(疲れ果てて眠ること)になることもある。その症状は様々だが、軽そうに見えても1・2日あるいは4・5日で亡くなる場合もある。痙攣が甚だしい場合は特に油断は許されない。幸いにして助かっても傷寒しょうかん  漢方医学で急性熱性疾患の総称)のごとく舌が黄色や黒色に変色し、皮膚乾燥、水分を欲し、うわ言を発し、大小便が詰まったり、皮膚に赤い斑点が現れるなど、様々な症状が現れることもあるが、そうでない場合もある。

『暴瀉病流行に付』(その1)
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 安政己未の中秋十二日の頃より暴瀉病余か郷に流行し
 て斃る丶もの算るに暇あらず、去年戊午の秋も流行すると
 雖も今年の数去年に比すれば百培せり、其初め北より起て
 南に及び、終に城市村落一般に蔓延するに至る、其勢台
 風の回転して砂を巻、樹を倒して進むが如く、其進むとこ
 ろの勢必ず暴劇人を死す事の速かなる、一二時を過ず、或は半
 時して斃る丶ものあり、其症発するの初め腹痛せず苦む
 ところなくして卒然として暴瀉す、水の如くにして粘滑のものを交
 へ、或は米泔汁の如きものを交るあり、二三行或は四五行にして
 声啞するもの凶兆なり、次て心下物ありて塞ぐが如く嘔吐二三
 回目陥り顔色衰へ間もなく大に煩悶を発、呻吟擾乱
 して手足厥冷して冷汗出、煩渇引飲水を好み脈沈細な
 るあり、或は微にして絶せんとするあり或は応ぜざるあり、転
 筋甚しきものあり、或は転筋せず困睡状の如きものあり、緩
 なるものあり急なるものあり、緩なるものは一二日或は四五日に
 して斃る丶ものあり、或は救ひ得るものあり、転筋甚し
 きものは其死速かなれば油断すべからず、或は終に脱状に
 なりて急死するものあり、或は幸に危急を凌て後傷寒の如
 く舌黄胎或は黒胎乾燥冷水を欲し、譫言忘語して大小
 便秘閉するあり、或は赤斑を発するもあり、其余患を残す
 の症一ならず、或は残さざるもあり

 中秋は旧暦月8だから、コレラは安政6年8月12日から始まったことになる。昨年安政5年にも僅かな流行があったが、今年は激甚(「百倍セリ」)だった。なんと流麗な文章であろう。「其勢颱風ノ回轉シテ砂ヲ巻樹ヲ倒シテ進ムガ如ク」と恐るべき速度でもって広がってゆく有様が流れるような文体に乗って伝わってきて、災厄の大きさがヒシヒシと迫ってくる。殊にコレラの症状の記載は明確で、元伯の冷静な科学的とも言うべき観察眼に驚かされる。その症状を『医科細菌学』(南江堂)からとって元伯の示した用語(太字)と対比させてみよう。
 「コレラは、腹部の不快感と不安感に続いて突然下痢と嘔吐〔暴瀉〕が始まり、ショックに陥り、治療しなければ24時間以内に死亡する。下痢便は「米のとぎ汁様」と形容される〔米泔汁〕。排便回数はきわめて頻回で、下痢便の量は一日10リットル以上に及ぶことがある。水分の喪失が体重の8〜12パーセントに達すると、脱水症状が顕著となり、のどが乾き〔煩渇引飲水〕、血圧が下降し、脈は触れにくいか、ほとんど触れなくなる〔脈沈細〕。皮膚に弾力がなくなり、四肢は冷たく湿っている〔手足厥冷(けつれい)〕。指先の皮膚にシワが寄り(洗濯婦の手)、顔貌は眼が落ち込み、頬がくぼむ(コレラ顔貌)。声はしわがれ、聞き取りにくくなる〔声啞(せいあ)〕。血液の電解質の異常により、四肢の筋肉がときおり痛みを伴う痙攣をおこす〔転筋〕。意識は正常のことが多いが、ときには昏睡に陥るといった多彩な症状を呈する〔煩悶を発 呻吟擾乱(しんぎんじょうらん)、譫言忘語(せんげんぼうご)〕。」と元伯は、きわめて適切に症状を述べている。この観察眼は現代の医療にも通じる。
 コレラの大きな特徴は、「暴瀉」(嘔吐下痢)と「一二時を過ず或は半時して斃る丶」という迅速な死だった。
 具体的には『静岡県史』(別編2・自然災害誌)でその実際を知ることができる。「明治12年には(まだ細菌は発見されていない)静岡県内では、1264人の患者数のうち56%が死亡し、そのうち53%が24時間以内に死亡しており、さらに驚くべきことに、発症後3時間以内に死亡するものが40人もいたとされることなど、即時に病みて、即時に終われり、と言える病気である」とあった。その実態は、「富士川の船頭は棹(さお)を取りながら死に、畑で鍬を持ちながら、はたを織りながらの死者など、元気な若者がたちまち死ぬことが多く、病家から帰ってすぐ死んだ医者の例など、病人と接して伝染する病気とも知られた。」と具体的に示されている。
 この点に関して、埼玉県立文書館蔵『井上家文書』にも、翌年安政六年のコレラによる大坂での死の有様が「暴瀉病流行の始末」として示されていたので合わせて紹介しておこう。

 ※井上淑蔭(よしかげ 1804〜86) 入間郡石井村(現埼坂戸市石井)出身の国学者

暴瀉病流行の始末 『井上家文書』
要約 安政6年大坂では、その前年も流行したコレラがはやり、日々数千人が死亡した。
その見聞を記すと、「婚礼の席で嫁が」、「帳面をあわせていた男子」、
「人と話していた女子」、「行水して子供と涼んでいた女子」、「掛け取り出た
男子が夜に」、「一日中遊んでいた童子が夜中に俄に死んで」、あるいは
「一家五人の内4人がコレラで死んだ例」、「夜遊びに行って腹上死した男」
などという例も示されている。

 安政六己未年五月上旬より六月まで雨天、土用に至て快晴し炎暑甚し
 忽(ち)異病流行して大坂市中死亡日々数千人に及ぶ、其症去年の暴瀉病にて
 重きは腹中雷鳴・吐瀉・手足結冷・転筋してすくいがたし
 軽きは吐瀉のみにして治療の届くあり、則遠近見聞するを記す

一 或商家婚礼の席にて嫁右の急症発して死す
一 男子年四十、盆前の帳合する事常の如し、たちまち右の異病発して卒亡す
一 女子年三十、或日人と応対し説話する事平日の如し、俄に右の症にて卒倒す
一 女子年二十七八、常の如く行水して門に出、児を愛して涼む、忽ち発病し死す
一 男子年五十、盆前の懸取(掛売りの代金を取り立てる)に出て夜に入て帰り臥
  たちまち異病発して卒亡す
一 童子年十一二、終日遊て帰り臥、夜中に右の難症発し、即死す
一 或商家五人暮し、四人一時に変症発して死す
一 男子年二十二三、夜遊を好む、或夜常の如く市中に出て惣嫁(道端などで客を引く
  下級売春婦)
を買う、忽ち急病発して惣嫁の腹の上にて即死す

 安政6年の大坂でのコレラの実態である。上原元伯の言う「一二時を過ず或は半時して斃(たお)る丶」の実例で、突然の死が具体的に示されている。但し罹患した者には暴瀉はあったはずで、これを抜いて書かれているので違和感を感じる。以下、生き返った人もいたらしい。

要約 コレラに罹って助かった人もいて、棺桶から突然声を出して蘇生した男子、しきりに
   水を欲しがって与えていたら翌日治った女子もいた。

亦希有に助かりし人 (『井上家文書』)
一 男子年三十、右の急病にて死す、一家集りてすでに葬するに至る   
  忽ち棺中に声を発し蘇生す
一 女子年十七八、右の急病発して苦痛する事二日二夜、湯薬一滴通らず
  冷水を乞う、よって是に水をあたうれども吐しておさまらず
  然れども乞う事頻りなれば度々あたうる事一日一夜

  翌朝に至りて平癒して常の如し

 この女子の頻りに水を求める様が痛々しいが、コレラは暴瀉で脱水になるのだから水分を与えたのは理にかなっている。
   
b.コレラを中国の医書で検索
要約 この病気は霍乱に似ているがそうでなく、実にまだ誰も知らない新奇病ではなかろうか。しかしながらその病性を調べその病因を探って病気を治すことは医者の大切な務めである。まず中国の書で調べたのだが、この病気を説明する著書は見つからない。痧病(さびょう)だという説があるが、それは、李時珍(りじちん 明人)の『本草綱目』『沙虫集解(集解は多くの解釈をまとめたもの)』に出てくる。その中の沙蝨毒(さしつどく)には暴瀉の症状はない。『沙虫集解』の説では、痧病は初期傷寒の症状から突然死に至るものを撹腸沙(かくちょうさ)というのだがやはり暴瀉の症状はない。撹腸沙という病名は、危亦林(きえきりん 元人)の『得効方』に見つけられ、それは乾霍乱(かんかくらん)のことである。また、龔延賢きょうえんけん 明人)の『萬病回春』にも乾霍乱を見つけることができる。また葉尹賢(よういんけん 明人)の『極急遺方』、李春の『衛生易簡方』、王璽おうじ『医林集要』にも撹腸沙という病名があり同じ名称だが、その症状は大いに異なっていて、むしろ郭志邃(かくしすい  清人)の『痧腸秘方集験』の絞脹沙(こうちょうさ)と同じであり、青筋という病気に近い。この病気は青筋や紫筋を見て、これは瀉血(しゃけつ)すると速に治癒するという。しかし郭志邃の言う痧病と李時珍のものとはその症状は大いに異なっている。霍乱沙という病気が似ているところもあるがまた大いに異なるところもある。

『暴瀉病流行に付』(その2)
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 此病霍乱に似て霍乱に
 もあらず、実に一種の新奇病にして人智の測り知るべから
 ざるところの病ならんか、然れども其病性を推し其病因を探り
 病者を塗炭の中に救わんと欲するは医の要務とするところ
 なれば、先づ漢人の書によりて其病証を詳にし其の主治を求
 めんと欲すれども、彼の土の医人此病を弁する所の明説諒解   ※ 中国
 の著書を見ず、或云痧病なりと、因て之を古人の書に考るに
 痧病の名 明人李時珍が本草綱目 沙虫集解に出ると雖ども
 沙蝨毒をして今秋の暴瀉の症に似ず、故に集解の説を挙て
 其異なる所を示す、時珍曰、沙病初起如傷寒、頭痛 壮熱 
 嘔悪 指頭微冷或腹痛悶乱 須臾(わずかな間)殺人は謂之撹腸
 沙云々、此症暴瀉の症を挙げず、撹腸沙と云る病名を古書
 考るに、古書見るところなくして始て元人 危亦林が得効方に見ゆ
 即ち乾霍乱の事なりと、又明人 龔延賢が萬病回春に
 も亦た乾霍乱の事なりとあり、又明人 葉尹賢が極急遺
 方、李春が衛生易簡方、王璽が医林集要等載るところの
 撹腸沙は別に一種の病にして名は同じけれども其証遥に異なりて
 清人 郭志邃の云る痧腸秘方集験の絞脹沙と相同し、又
 これを青筋と呼ぶ症は必す青筋或は紫筋を見す(る)ものにして
 之を刺て血を出すときは速に癒ると云、今郭志邃等云るとこ
 ろの沙病を以て時師之を流行病に比すれども其症侯大に異なり
 且右陶説ところ今秋の流行病に及ばず、独り霍乱沙と云るありて
 少く今秋の病に似たるところありと雖ども亦大に異なるところあり(以下一部略)

 冒頭に霍乱とあるが、激しい嘔吐、下痢、腹痛、発熱を訴える病気を当時撹乱と診断していた。そのため多くの漢医はコレラを霍乱と診断していたらしい。元伯はどうもそれとは異なる「新奇病」だと考え、その病因を探るために、まず中国の医書にその解を求めた。それらは、李時珍の『本草綱目』、
『沙虫集解』、危亦林の『得効方』、龔延賢『萬病回春』、葉尹賢『極急遺方』、李春『衛生易簡方』、王璽『医林集要』、郭志邃『痧腸秘方集験』などであった。まず『本草綱目』、『沙虫集解』に出てくる痧病に注目した。痧病とは水中にいる毒虫が、人を害して起こす病気とされる。痧病と「沙病」とは同義であろう。痧病の場合、気が塞った部分に血が滞り(瘀血という)、青筋(静脈怒張)ができて、その部を瀉血すると癒るとされる。しかし、今回の病気はどうも痧病ではないと考えたのである。
 今でも必須かつ基本的な病気の文献検索を行っており、症状の観察とともに適切な文献検索は現代医学にも通じる。このことは、元伯はすでに近代人として通用する科学的な認識を持っていたと言うしかない。
 ちなみに、上原家からは70冊ほどの古文書が群馬県立文書館に寄託されているが、そこにはこれらの医学書は無かった。ということは、医師同士で医書の貸し借りがあって研鑽を積んでいたのではなかろうか。そうは言っても、当時の書籍状況などを考えるとこの作業は相当に困難だったに違いない。
 このあたりから漢方医学用語が頻出してくるが、説明は必要なものに限定する。弁解になるが漢方医学とは、「古代がどっかりと居すわったままで、近代がなかった。物を正確に物として見るという精神にとぼしく、一個の観念的哲学を通して見るため、西洋医学とはまったく思想も体系も異にし、およそ比較の対象になりにくい」(司馬遼太郎『胡蝶の夢』)という適切な意見を添えることでお赦し願いたい。

c.コレラの漢方医学からの解釈
要約 今回の奇病は全く霍乱であって、何の根拠があって痧病というのであろうか。痧病は熱毒であって温暖の薬剤を避けて主に寒涼の薬剤を用いるので、今回の奇病にも通じるところがあるかもしれない。霍乱時の吐瀉と診断して参附(さんぷ)の剤を投与するよりも大いにすぐれている。この奇病は熱毒が猛烈なので参附を用いることは火に油を注ぐようなものである。この奇病を診るとまさに外寒裏熱の症状で四肢厥冷(けつれい)だが、腹内は焼くように熱い。そのため寒涼剤を使って効を得ることは少なくない。さらに先発の薬剤として、湿霍乱に準じて葛根桂广、五苓加減、芩連加入の剤などの治療を行う。症状が激しく水分を強く求める場合には石膏を用いるなどして効を得ているのだが、この奇病の根源が全く分からない。どうすべきであろうか。

『暴瀉病流行に付』(その3)
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 此症説ところ全く是霍乱にして他の症候を云ず、何の拠どころあ
 りて今秋の病を以て痧病と名付たるか余が解せざるところ
 なり、然れども痧は熱毒なりとありて、専ら寒涼の薬を
 用い温煖の剤を忌め、痧を療するの法を以て今秋の病に臨
 むは治法に於ては敢て霄壤の隔絶たるにも非ずと思へり、霍   ※ ショウジョウ 天と地
 乱吐瀉胃冷の症となして之に参附の剤を用るものに比す
 れば大に勝れり、夫れ酷厲の気たる皆熱毒にして寒に属す
 るもの少し、況や今秋の病尤も其毒猛烈にして火気焔々
 たるが如く、是参附を用ゆるは油を淋ぐに異ならず、其
 勢何ぞ減する事を得んや、余此病に臨むごとに其病状を察
 するに皆これ外寒裏熱の症にして四肢厥冷氷の如しと雖ども
 腹内焼が如し、其病勢進み盛なるに及ては寒涼剤を連服
 せしめ効を得る事少からず、然れども此病の発する初め先発散を
 要とし葛根桂广の類を投じ、被を覆ふて汗を取り、或は五苓
 加減の方を与へ、或は芩連加入の剤を選用し、大卒湿霍
 乱胃熱甚しき治法によりて薬剤を与ふ、其症尤劇しく
 内熱焼か如く、瀉下已に止て氷を求め水を貪るものに至り
 ては石膏を用ひ数々効を得る事あり、僥倖に病者をして
 鬼録を免れしむると雖ども、恨くは漢人詳説明解の著書な
 くして此病の淵源を探り得る事能わざるを如何せんや     ※ エンゲン 根源

 元伯の意見は、今回の病気は痧病などではなく、その症はやはり霍乱だというのである。なんで痧病と言うのか。「痧は熱毒」であって、主に寒涼の薬を用いる。今回のコレラにも適用して、霄壤(しょうじょう)とは天と地という意味だから、雲泥の差はなく近縁の病気ということになる。参附は、人参と附子との合剤だが、火気に油をそそぐようなもので効くはずもない(漢医は通常霍乱には附子を与え、同様にこの度のコレラにも附子を与えたことを指している)。この病気は、「酷厲の気」(こくれい 残忍で凶暴な気)が入って熱毒となって、「外寒裏熱」、つまり四肢は冷たいが、腹部が熱くなっていることに注目している。しかし元伯は漢方医学ではコレラに関して「漢人詳説明解の著書」は無く、「此病の淵源(えんげん)を探り得る事」はできないと嘆くのだが、そこで追求の手を緩めたりはしない。さらに当時の蘭方医学の領域にまで手をのばしたのである。

d.モリスの『医学韻府』
要約 よってこの奇病を西洋ドイツの穆私篤の書いた『医学韻府』で見つけた。この病を述べると、ドイツ1817年(本邦文化丁丑の年)に初めて東インドの南海の海岸に起こって各国へ蔓延、ついに本邦に及んだ。インドで初めて被害があって以来死者はおよそ900万人にも及ぶ。この奇病にかかって助かる者は僅かに半分ほどしかいないという。

『暴瀉病流行に付』(その4)
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                      因て
 之を西洋独逸国の医 穆私篤著すところの医学韻府と
 云る書によりて 此病の源因を考窮するに、彼国一千八百十
 七年本邦文化丁丑の年に当りて初て東印度の南海の浜に
 起り次第に諸州に蔓延して然に本邦に及ぶ、此病彼国に
 於て初て兇厲を現せしより今に至るまで死亡するもの凡九百
 万人に及ぶ、其真症に罹て救脱を得る者は僅に其半に過
 ずと云ふ

 元伯はついにドイツの医書『医学韻府』(モリス著)の中でこの病気を見つけた。これがコレラの第1回目のパンデミック(世界的)な流行である。1817年8月にカルカッタで始まり、インド全土から、1820年に三つのルートを通って世界各地へ広がった。日本へはインドから東南アジアに出て、1820年ジャワ、21年ボルネオで流行したあと、広東に入り、1822年朝鮮半島を経て本邦対馬に渡り、文政5年8月、対馬から長門に上陸した。これが日本で最初のコレラで、文政5年(1822)のことであった。

e.原因あるいは悪化要因
要約 原因はよく分からないが、(1)狭くて汚い部屋、(2)悪いものを食べたり、摂生しないこと、(3)はなはだ寒いとか暑い環境などが病気を悪くさせる。寒くなるとこの病は消滅するが、再度に及ぶこともある。後年再度流行することがないとは云えない。窮理家(物事や道理の法則を極める人)は、(1)彗星が近づいたり、星の位置が変わったりすること、(2)火山が爆発することで地中から異常な蒸気を発すること、あるいは、(3)河川から見えない蒸気が出るなど自然現象にその因を求めていた。

『暴瀉病流行に付』(その5)
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 其病の真性は人々異見ありて未た明亮ならず、但し
 感受に於て不潔狭隘の居室悪食摂生不節或は大
 凉甚暑及び気候俄に変する等に乗じて其害を擅にす
 蓋し其蔓延する所の地 凍寒の時に至れば其勢大に減すと雖
 ども再度に及ぶ、後年流行の時に及んで又感する事なしと
 云べからず、窮理家の説には、此病の発するは或は彗星の近ずくによ
 り、或は星病位置の模様により、或は火山併発し地球破裂陥
 没して地中より非常の蒸発気を発するに由り、或は人の覚へざる
 精微の蒸気河川より発するに由と云り

そしてあろうことか、安政5年8月本当に彗星が現れた! そのことが『安政記一』に示されていた。

 『安政記聞一』の彗星の記事
 
八月
 彗星 西の方 東の方に見ゆる
 西の方は暮六ツ時頃地より三竿ほど高く          ※ 午後6時
 亥の下刻は見えず                               ※ 午後11時
 東の方は暁七ツ時見ゆる                ※ 午前4時
 この光りをひく事壱竿 弐竿 三竿ほど夜毎に同からず
 西の方八月上旬より九月中旬まで見ゆる
 東の方八月上旬より九月上旬まで見ゆる

 これが有名な「ドナッチ(ドナティ)彗星」だった。当時は、「此星出現る時は旧を去りて新を生し天地一変す、故に必国家擾乱(入り乱れること)の兆(前ぶれ)にして兵事有、自然と五穀不熟、飢饉、疫病流行して生霊を損と云」(『彗星夢雑誌』)と信じられていて、彗星が出ると何か悪いことが起きると、人々は大いに恐れたのである。

f.上原元伯の見解
要約 私の拙い意見を述べると、この奇病は悪厲の毒が湿熱鬱蒸の気をかりて体に入って腸胃を侵して、嘔吐下痢を引き起こして生命を障害するのである。湿熱鬱蒸だから温熱の剤を避けて寒涼の薬剤を用いる理由なのである。治療する時には、よくその病気の道理を求めてその徴候を理解し思いをめぐらすことが肝要である。

『暴瀉病流行に付』(その6)
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                 余が愚意を以て此病
 の源因を考るに、湿熱鬱蒸する時にあたり彼の悪厲の毒其
 熱を擅にし、人の体中に入て腸胃を侵し、暴吐暴瀉をなして性
 命を傷害するものは彼の悪厲の毒湿熱鬱蒸の気をかりて、以
 て人身を傷る故ならんか、其腹痛なきものは必ずしも宿食
 停滞よりして発するに非ず、悪厲の毒体中に入て腸胃を侵す故
 ならん、是余が寒涼の薬を用て温熱の剤を忌む所以なり、治
 療をなすもの能く其理を察し其証を詳にし焦心苦思して
 以て其方法を求めずんばあるべからざるなり

 元伯は、病因として「悪厲の毒」を想定している。「厲」とはえやみ(はやりやまい)という意味である。異体字にはやまいだれの「癘」がある。人の病気なのだから、癘の方が妥当のような気もするが、使い分けはよく分からない。橘南谿『雑病紀聞』によると「天地の間にありて、腐りたる穢濁(けがらわしいこと)の悪気となり、世界に流行するを、其流行する筋に住居する人々、口鼻より呼吸の気に交えて、腹中に引入る丶ゆえに、病むなり」の穢濁の悪気のようなものを指しているのであろうか。奈良時代の史書『続日本紀』にみられる「疫気」や「疫神」のようなもの考えていたのかもしれない。これが後に細菌だったことがコッホ(1843〜1910)によって発見された。ヨーロッパでは、ヒポクラテスの時代(紀元前460年生〜同370年頃))から、病気の突然の発生は土中に埋まった屍体その他腐敗した物質から生じる瘴気(熱病を起こさせる山川の悪気)によって引き起こされると主張されていた。瘴気は或る一定の度合いに、体力の衰えた人体と出会ったとき病気を起こさせる、というのである。

g.西洋医学のコレラの治療法と元伯の結論
要約 西洋医学ではこの病にまず刺絡(しらく)を行う。次に、阿芙蓉液・磠砂(ろさ)・精吉那監・甘汞(かんこう)龍脳・麝香(じゃこう)・炭酸・格綸僕・莨宕根・香木・龞(すっぽん)・薄荷水・白芷・精鹿琥液・鎮痛液の類、外用の法は摩擦法・蜞針法(ひる)・冷法・熱蒸法・温浴法・灌注浴・乾摩法・発胞剤・飲液法・蒸溻法(じょうとう)など種々の治法があってそれぞれ効果があるというのだが、その中で刺絡法だけは私(元伯)にはよくわからない。しかし私は、外国の学問に暗くかの国の書物を読んでも正しく理解できないけれども、愚見を述べると西洋の人は動物の肉を常食としているため多血なのである。本邦の人は肉食ではない。したがって多血の人は極めて少ない。多血でもない人にいたずらに刺絡法を行えば、大切な血液を失うことになる。血液は気に従って巡るのだから、気が塞ぐと血液は凝滞(とどこおること)して流れなくなってしまう。気が快暢(のびのびとしていること)な時は、血液も巡りがよい。だから瀉血は意味がない。しかし西洋人は平素肉食だから多血のものには有効なのである。本邦の人は穀食して肉食はしない。多血でもない人に刺絡法をするとむしろ害があるのではないか。いくつかの摩擦法は試みて効があったし、温浴法もいくらか効があった。その他は試していないが、おおかた霍乱の治法と思われる。予防法として西洋では鋭烈麦酒 葡萄酒を用いているようだが、私は、雄黄・朱砂・硝石の類を焚いて防いでいる。謹んで言うのだが、最近我が国は種々の天災があって万民が極めて苦しんでいる。大風雨 大地震 大洪水、それに加えて今回の暴瀉病もまさにそれなのである。神祖以来平和で皆久しくそのめぐみに浴しきたが、飽食・暖衣でも、それで足りるとは思わなくなっている。そして皆奢侈になって惰慢の心が生じているのだ。このことが天災や暴瀉病に逢わせているのだ。人々はくれぐれも天を恐れて謙虚に生きなければならない。
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                  西医の此病を療する
 第一刺絡を貴ぶ、次に吐薬を用ゆ、其他阿芙蓉液 磠砂
 精吉那監 甘汞 龍脳 麝香 炭酸 格綸僕 莨宕根 香
 木 鼈 薄荷水 白芷 精鹿琥液 鎮痛薬の類、外用の法は     ※ スッポン
 摩擦法 蜞 針法 冷法 熱蒸法 温浴法 灌注法 乾摩法 発   ※ ヒル
 胞剤 飲液法 蒸溻法の類種々の方法ありて頗る其効験
 を得るものありと雖ども、独り刺絡法に於ては余未だ其理を解
 せざるところあり、然れども余彼国の学に暗くし窮理の書を読
 ざれば其是非を糺す事能わずと雖ども、愚意を以て之を按ず
 るに、彼国の人は禽獣の肉を以て平日の食に供す、之を以て人
 皆多血也、本邦の人は常に之を食わず、故に彼国の人に比すれば
 多血の人極て少し、今多血にもなき人を以て之を多血の人に比し
 妄に刺絡法を行ひ、人身中大切なる血液を減損し、一身養
 護の種を失なわしむ、夫れ血は気に従て環るものにして、若気圧
 塞して通ぜざる時は血これによりて凝滞して流れず、気快暢な
 る時は血も亦順流して滞らず、流動の機血に非ずして気にあり、今
 気を和して血を環なす事を欲せず、血液流通の通路を刺し多
 量血を奪て病を療するに、譬ば柱に膠して瑟を鼓するが如し、然
 れども彼の西洋人の平素肉食して多血なるものを療するには益あら
 んか、本邦の人は穀食して肉食せず、多血にも非ざるものを療するに
 は必ず害あらんかと思へり、摩擦数法の如きは余数々試て効
 あり、温浴法の如き其症によりて効あらん、其他の諸法余未だ
 試みず、彼国にても治療の法は大卒霍乱の治法によるものと見
 へたり、予め防ぐの法は彼国にては鋭烈麦酒 葡萄酒を用ふ、余は
 雄黄 朱砂 硝石の類を焚て之を防ぐ、蓋し千金温疫を防ぐ法によ
 る、謹て按ずるに本邦近来種々の天災ありて万民塗炭に苦し
 む、大風雨 大地震 大洪水之に加るに流行の暴瀉を以て其故他
 なし、神祖以来昌平日久しく上下其徳沢に浴し飽食暖衣        ※世の中が平和なこと
 以て足りとせず、各奢侈に長じて惰慢の心已に生ず、是を以て天災
 を逢しめ憤怨を見ず、人々謹慎恐懼せずんばあるべからざるなり

 ここでは、西洋の各種治療法を紹介している。刺絡とは鬱血した静脈を針で刺して悪血を瀉出する瀉血療法のことである。その他は、阿芙蓉液・磠砂・精吉那監・甘汞・龍脳・麝香・炭酸・格綸僕・莨宕根・香木・龞・薄荷水・白芷・精鹿琥液・鎮痛液、外用としては、摩擦法・蜞、針法・冷法・熱蒸法・温浴法・灌注浴・乾摩法・発胞剤・飲液法・蒸溻法と分別できそうである。これだけの治療法があるということは、むしろ治療法が無いというに等しい。
 刺絡に関しては、外国人は肉食だからで多血なはずで、そうでない日本人には必要ではないという元伯の見解が示されている。文中「琴柱(こと)に膠して瑟(おおごと)を鼓するが如し」とは、規則にこだわって融通のきかないことのたとえである。当時西洋では意味の無い刺絡法が日常的に行われていた。
 最後に、「奢侈」に長じ、「惰慢」になったことでさまざまな天災や病気が引き起こされたと、当時の儒教的倫理観にもとづく考えから結論を下しているのだが、このことは後述する「天命思想」にも繋がっているようにも思われる。

まとめ
 お読みになってどんな印象を持たれたであろうか。元伯は、今までに経験したことのない疫病に接して真正面から立ち向かい、おそらく呻吟苦悶した結果渾身の思いでこの小冊子を残してくれた。それは世に問うことなく長らく上原元伯の手元に置かれていた。しかし、丁寧に楷書で、また漢字・カタカナ文で書かれていたことから、元伯が後世に残す意図のもと書きとどめた一書だと思えてならない。奇しくも、その古文書が群馬県立文書館に寄託されたこと、それを医師である私が読んだこと、なによりもコロナウイルスのパンデミックな流行に遭遇したことが今回の発表に繋がっている。それにしてもこの難解な長文を一気に書き記したはずで、そのたぎる思いも含めて驚くべきことだと思っている。もちろんその内容はすでに陳腐というより好奇の対象でしかないのだが、元伯の言う「其病性ヲ推シ其病因ヲ探リ病者ヲ塗炭ノ中ニ救ハント欲スルハ医ノ要務トスルトコロナル」ことを目的として、「治療ヲナスモノ能ク其理ヲ察シ其証ヲ詳ニシ焦心苦思シテ以テ其方法ヲ求メズンハアルカラザルナリ」とは、けだし至言で、医の根幹をよく示してくれている。
 田舎の上野国にもすばらしい医師がいた。この一冊を読み終えてしばらく上原元伯という医師が頭から離れなかった。そう、目立たないながら、いつの世、どこにでも傑出した人物は確かに存在する。そういった人物を顕彰できることは何よりも感動的な嬉しい出会いだと心の底から思った。

 古文書『暴瀉病に付』は上原家より群馬県立文書館に寄託されたものである。


安政6年の大洪水について
 『安政記聞3』を読み返していたら当時(150 年前)上州などに大洪水の記事があったので紹介しておく。この大水害の後すぐにコレラの大流行が襲ってきた。
大水害は、安政6年7月24日夜から大風雨が起り、翌日午後2時頃迄続いた。そのため上州の河川(渡良瀬川 利根川 神流川 烏川 荒川など)が大洪水になったという。
2つの災害が同時に起ったという異変の中で、被災者たちは必死に生き抜いたことを銘記すべきであろう。

未七月廿四日夜より廿五日迄大風雨洪水の事
 七月廿四日夜より廿五日未の刻迄巽艮風強く

12
 大雨にて川々大洪水
 渡瀬川大洪水 六七十年已来の大水と云
   水出ばる未の刻
 茨輪も人家流失無之、床上壱弐尺上ル 間坂水車流失
 新田の内
 赤岩大半流失 死亡八人 同所に近年青柳と云
 会席茶屋庭も風流の赤松など植交しか不残押流さる候
 同所にて桐生商人糸荷流失 四百両程共千両とも云
 利根川洪水 水出たる
       夜五時
 所々にて土手きれる
 川筋田畑亡所此民家流失死亡人多く未だ
 不紛明 小嶋最寄中瀬 平塚最寄一円水入
          かぶら川筋
           森新田村民家九十軒ほど流失
           村の内へ新川出来る
 神流川 烏川洪水
 中山道
 新町宿民家拾四五軒流失 本庄宿御堂坂 
 辺往来損し水入にて通行無之 牧西侍尓堂
 近辺床上三尺ほど水揚げ田畑亡所多し
 嶋村金打研香の宅 床上水壱尺五寸ほど聞り
 荒川大洪水
 所々にて土手きれ熊谷宿松山口下宿はづれ

13
 東竹院門前にも都て五六十軒流失死亡多し
 久下村不残流失人家三十ほど不残押流し
 人々漸拾人ほど助りしもの有之と聞り
 忍御城は利根川 荒川両方よりきれ込大湖の
 ごとく八月三四日頃水退き不申よし
 其外在々村々田畑民家死亡夥しくいまだ
 委敷不相分 中山道熊谷辺 本庄辺往来留
 戸田川七月廿九日迄渡船無之
 中山道八月末迄往来継立無之
一忍領一円水腐城中水押入死亡多し
 利根川 荒川 烏川 神流川 渡良瀬川すべて百余
 年来の洪水と云
 同日越後 信州 奥羽洪水上方筋所々洪水

八月洪水
八月十三日大風雨洪水

 桜田門外の変は奇跡的なことだった!

 安政7年3月3日(現在の3月24日)大雪の日、大老井伊直弼が水戸藩士らによって暗殺された事件はあまりにも有名である。吉村昭 『桜田門外ノ変』でその詳細が分かるが、当時の古文書でもその事件のことは数多く見つけることができる。それは、赤堀家文書の『安政記聞5』にもあった。当時の生な記録ともいえるので、その内の一つを覗いてみよう。

  御小人目付衆黒鍬の者等の物語
 掃部頭殿登 城の節乱妨仕懸方、始末は始め
 五人程御徒士へ仕懸又下供へ仕懸候間、御駕籠脇の
 者前後へ気を奪れ候を見透し、御駕籠へ鉄砲打
 候を合図にて御駕籠の左右より四五人づつ抜身にて
 突込候処、兼て御用にて駕籠の内鉄を張り有之
 不突通故、引戸の窓より突通し候上、御駕籠の
 戸を外し直に御身体を引出し御首を討取
 候よし、其上銘々一太刀づつ無残切殺しシメタシメタと云
 より同音に声をあげ、何れも日比谷御門の方へ散乱
 いたし候、其節供頭の首級を刀に貫き十人程日比谷御門
 へ入、残党は同所迄一緒に参り、掃部頭殿の首は風
 呂敷様のものへ包み持居り候得共、是は何れへ逃去
 候哉不相分よし(以下略)

 どうも浪士5人程が駕籠の前と後に意図的に突っ込んで隊列を動揺させて、駕籠あたりが空いたところ、鉄砲を打ち込んだのを合図に駕籠脇左右より抜き身で浪士4、5人で押しかけたらしい。駕籠は内に鉄を張っていたため刀が通らないので、引き戸の窓から刀を刺して、その後戸を外して井伊掃部頭の首を取ったとある(茶記事部分 吉村説ではそのことは述べられていない)。暗殺は大成功だったのだが、私はこの事件は奇跡的なことだった考えている。それは、3つほどの偶然が重なって奇跡になったのではなかろうか、と考えている。
以下、
その1。最高権力者 老中(大老)の初めての暗殺行為だった。だからその守護態勢に真剣味が無かったかもしれない。
その2。その日は大雪だった。それは、60年間に3回程度のまれな大雪だったらしい。そのため警護の侍たちは雨具を着け、それぞれの刀に「桐油柄袋」を付けていた。行動は制限され、すぐに刀を抜くことはできなかった。この失態はよく指摘されている。
その3。浪士(黒沢忠三郎)が鉄砲を撃って突撃したとあるが、それがあろうことか命中した! 通常鉄砲の命中する確率は意外なくらいに少ない。あまり指摘されていないのだが、実はこの鉄砲が井伊掃部頭に命中したということが最も奇跡に導いたのではと考えている。掃部頭は即死では無かったようだが、動くことができないほどの重傷だった。この後文久2年、老中安藤対馬守がやはり襲われて、警護の侍たちが適切に処置するとともに、対馬守は外へ逃げ出すことができた。もし掃部頭が撃たれていなければ逃げだすことも可能だった。
 と考えている。こうして偶然が重なって奇跡となった。幕末の歴史はこの事件をキッカケとして急速に変革していくのだが、それも奇跡に近いかもしれない。

 なお、『幕末史』(佐々木克)を開いてみると、「戊午の密勅を知った幕府は、水戸藩に勅書を差し出すことを命じ、諸藩への伝達も禁じるが、水戸藩の有志が抵抗した。幕府にとっては、幕府批判勢力が結集する方向に動く懸念があるから、手を打たないわけにはいかない大事件である。こうして幕府・大老と水戸藩との軋轢が高まっていき、桜田門外の変に帰着していくのである」とあるが、この時(安政5年8月)の世の中は、特に江戸において、まさにコレラの悲惨な流行の真っ最中だったことも銘記してほしい。桜田門外の変の原因は、一元的に見るのではなく、このコレラの惨劇も担っていたのではあるまいか。コレラの猛威の中で人心は異常状態になっていたとしてもおかしくはない。まず思い浮かんだのが、大正時代関東大震災が突然襲ったが、あろうことか朝鮮人虐殺があったことを思い出していただきたい。通常ありえないことがいとも簡単に起り得るのである!
 井伊直弼にも同じことが言える。安政5年4月大老になってやる気満々だった。僅か3か月でコレラの猖獗、どうしていいのか分からなかったにちがいない。そんな時判断ミスがあったとしてもおかしくはない。卑近な例では、コロナ禍の際、日本の首相2人そしてアメリカの大統領までも辞任に追い込まれたことを思い出していただきたい。前例のない全国的な災厄の前では、適切な解答を見つけることができなかった、と考えている。このあたりのことを、今後冷静に見つめていきたい。今後、災害心理学や医学は極めて大切な領域になってくるのであろう。
 「戊午の密勅」の実際は、赤堀家文書『安政記聞 1』の23~25頁にあるので参照してほしい。言い方は穏便だが、内容は痛烈な幕政批判である。不敬かもしれないが、もし孝明天皇がこの密勅をお書きにならなければ、安政の大獄は無かったかもしれず、桜田門外の変もなっかたような気がしてならない。とすると、日本の歴史は大きく変わったのかもしれない。(6/25’26)


「書籍出入帳」について
 落合信孝『幕末民衆の情報社会』(有志舎)には下記の「書籍出入帳」に関する記載を見つけることができる。
「上野国吾妻郡横尾村(群馬県中之条町)の蘭学の医者高橋景作(けいさく)は1826年(文政9)より1848年(嘉永元)までの書籍貸借の記録を「書籍出入帳」として残している。1826年に医書6冊・書籍11冊、1827年(文政10)に医書8冊・書籍10冊、1830年(天保元)に医書10冊・書籍7冊の貸借がある。医学書以外に、漢籍漢詩「百人一首」「方丈記」「鎌倉物語」「漫遊雑記」「北越奇譚」などの書籍が貸借されていた。高橋景作の交友関係は、主に中之条町・渋川町・吾妻郡周辺の医者・文人であり、書籍貸借の範囲も、主に中之条町周辺の医者・文人との間である。1837年(天保9)より1874年(明治7)の間、年間10冊から30冊程度の貸借があった。1856年(安政3)12月4日の日記には、「かし本来る、西遊記前編10冊返し2篇借る」と記され、中之条町周辺にも貸本屋が廻っていたことが確認される。」
 こうしてみると、江戸時代において田舎と思われるところでも、当然のことながら、学問的欲求があってそれを充足するシステムがあったと言える。

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